2008年06月10日

榎本武揚と開陽丸 その2

■□ 榎本武揚と開陽丸 その2 □■ By あすかさん

先月号に引き続き、この夏帆船「あこがれ」が参加する「榎本武揚没後
百周年記念事業」の一環として、榎本さんと<開陽丸>に詳しい北海道
在住のあすかさんに、榎本武揚と<開陽丸>について案内していただき
ます。(全3回)


榎本武揚と<開陽丸>

U 開陽丸《フォールリヒター》〜彼等を導く光〜

幕府がオランダに留学生を派遣した理由は、オランダで西洋の最新技術
を学ばせるだけではなかった。学んだ知識で留学生自ら、幕府がオラン
ダに発注していた船を日本に回航させる目的も有った。

留学生が学ぶオランダのドルトレヒト市で、その船は生まれた。
船の名は《フォールリヒター》。オランダ語で『前方を照らす人』。誰
がつけたかわからないが、その名の如くまさしく彼を導く運命の船だっ
た。
日本名は・・・・<開陽丸>。3本マスト・フルリグドシップの帆装で
400馬力蒸気機関一基の補助エンジンを持つ軍艦。この船は、残ってい
る絵などを見ても本当に美しい船だった。

オランダで(軍艦)運用・砲術・機関学を学んだ釜次郎は、そのあとに
デンマークとプロイセン・オーストリアの戦争を視察しクルップ砲の威
力を知った。クルップ砲の認識を深めた彼等は、<開陽>につけるクル
ップ砲の予定を6門から18門に変えた。
軍艦として完成した<開陽丸>。留学生としてやってきた彼等は、この
船の仕官として乗船することとなる。

<開陽丸>で帰国した留学生は15名のうち9名。

内田恒次郎(成章)・留学生団長。帰国後開成所に勤め、維新後は学校
          取締御用係・大学内博士となる。
榎本釜次郎(武揚)・箱館政府総裁
澤太郎左衛門(貞説)・砲術・火薬を学び、後に榎本らと<開陽丸>で
           蝦夷地に。箱館戦争時は開拓奉行となる。
田口俊平(良直)・造船学と測量学を学ぶ。<開陽>で帰国後、まもな
         く死亡。
中島兼吉・大砲の鋳造術を学ぶ。維新後、大阪砲兵工廠技師となり新政
     府に出仕。
古川庄八・<開陽>で帰国後まもなく起こった戊辰戦争で、榎本と共に
     官軍と戦うため再び<開陽>に乗った。維新後、横須賀造船
     所に勤務。
大野弥三郎・維新後造幣権允となり、17年間造幣寮で技師として勤め
      た。
上田寅吉・戊辰戦争で榎本軍に身を投じた。維新後、横須賀造船所勤務。
山下岩吉・維新後は横須賀造船所に技師として勤務。


話は前後するが、<開陽>の誕生、進水式、幕府への引渡しは記録を見
ても華やかだ。
進水式の記念パーティの晩餐会のメニューは今も残っているが、23もの
内容が書かれている非常に豪華な物だった。
留学生団長・赤松主催の慰労パーティでは『開陽丸進水祝賀の歌』が歌
われ、引渡し式では21発の礼砲が鳴り響く。

軍艦として華々しく出航した<開陽丸>。
しかし、日本に向かった<開陽丸>を待ちうけていた運命は・・・・・・
あまりにも悲しいものだった。 (つづく)
posted by SaltyFriends通信 at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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