2008年05月10日

■□ 榎本武揚と開陽丸 その1 □■

今年は、江戸幕末〜明治期の武士・幕臣・政治家、榎本 武揚(えのもと たけあき)の没後100周年にあたります。この夏、大阪市の帆船「あこがれ」は榎本武揚没後百周年記念事業に参加。東京〜石巻(宮城県)〜宮古(岩手県)〜函館(北海道)〜江差(北海道)〜小樽(北海道)にかけて、榎本武揚にゆかりの深い各地を訪問。榎本武揚の巨艦「開陽丸」の航路を巡る航海に出ます。
寄港地各地では、入港や出港の歓迎式典のほか、セイルドリルや一般公開などの行事も目白押しです!

ソルティーフレンズ通信では、この「榎本武揚と開陽丸」について、全3回のシリーズで帆船「あこがれ」
と、江戸末期に江戸幕府がオランダに建造させた軍艦「開陽丸」(3本マスト・フルリグドシップ型)に詳しい、北海道在住のあすかさんにご案内していただきます。


榎本武揚と開陽丸
T 榎本武揚〜開陽丸と出会うまで

榎本釜次郎武揚は天保7年(1836年)8月25日、幕臣・榎本円兵衛武則の次男として誕生。ちなみに、兄の名前は『鍋太郎』。鍋釜は大切な物ですが、自分の子供たちにこんな名をつけるとは・・。
釜次郎は幼い頃から学問好きで、11歳(数え年)で幕府直轄の教育機関『昌平坂学問所』で入所しました・・・が、5年間の課程終了後の試験の結果は『丙』。3段階評価の最低ランク。ここの授業内容が合わなかったのかは分かりませんが。(主に儒教や漢詩、書道など)同時期にジョン万次郎から英語を学び、英語と世界の知識を身につけた。
学問所終了後の1854年、目付・堀利煕(ほりとしひろ)の小姓として蝦夷(現在の北海道)にはいり、樺太探索に出かけた。蝦夷地御用を命じられた堀は、ロシアとの国境画定の調査を行っている。この期間に堀は箱館奉行になった。
この旅のなかで、釜次郎はロシア艦隊に遭遇し、箱館で外交の最前線を見て・・・・国防の必要性を考え、帰京後海軍の道を志す。
安政4年(1857年)長崎海軍伝習所に入所。ここで釜次郎は航法・砲術・造船・測量術・算術・オランダ語を学ぶ。技術者としての才能が有った釜次郎は、ここでめきめきと頭角をあらわした。
伝習所卒業後は江戸の海軍操練所の教授に任命され、江戸・長崎往復して伝習生たちの指導に当たった。
文久2年(1862年)3月、釜次郎は幕府がオランダに派遣する留学生の一人として選ばれた。
6月、留学生を乗せた咸臨丸は長崎へ。そして9月、オランダ商船カリプス号で彼等は長崎を後にオランダに向かった。

このオランダで、釜次郎は開陽丸と出会うのである。(つづく)
posted by SaltyFriends通信 at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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