船は時代や国の違いなどによって、昔から色々な用途に使われてき
ました。囚人を収監しておく牢獄として使われた船もあれば、レス
トランやホテルになった船、水族館になった船もあり、とさまざま
です。
日本が「文明開化」の波に洗われていた頃、やんごとなき明治天皇
をお乗せした<明治丸>が、やっとのことで度重なる災害や戦火を
かいくぐって対峙した次なる運命。それは米軍の「キャバレー」に
なることでした。
米軍管理下時代、ダンスホールとして使われていた主甲板
ご存知のように昭和20(1945)年、第二次世界大戦が集結。
日本は9月2日、降伏文書に調印しますが、その直後の9月20日
には東京商船大学(現東京海洋大)は、全校舎、施設が米軍によっ
て接収されてしまいます。もちろん<明治丸>も同様です。
駐屯したのは海軍ではなく、進駐軍をおもに構成していた米陸軍の
「第七騎兵師団」。この時<明治丸>は、長引く戦争のあおりで
メンテナンスが行きとどかなかったこともあり、船底部分から浸水
が始まっていました。
接収されるまでは毎日、大学関係者の方々がハンドポンプで排水し
ていたのですが、米軍の管理下におかれるようになってからは、
排水どころか、ろくに手入れもされていなかったようです。
《源氏名は"ミセス・ジーン"》
さらに米軍は、明治天皇が乗船されたときの御座所をはじめ、船内
のいたるところをペンキで塗りたくり、なんと<明治丸>をキャバ
レーに改造!船名(店名)も「ミセス・ジーン」(マッカサー元帥
夫人の名)と変えられて、米兵のたまり場に…。当時の大学関係者
の皆さんがどれだけ憤慨されたか、心中察してあまりあります。

ペンキを塗られ、消されていた御座所の日本画。現在はペンキを
撤去し、オリジナルの絵がふたたび展示されています。
さらに、いわゆる戦後のドサクサに紛れてか、船の内部の備品を
盗む輩も横行。この頃には浸水もさらにひどくなり、内部の改造
のために出入りしていた作業員の方の話によると、水はすでにメイ
ンデッキの下、1〜2メートル付近に達していたとのことです。
建造されてこの方、経験したことのない「辱め」に、ついに
<明治丸>が「もうイヤー!」とキレたのか、昭和26(1951)
年7月24日、係留されていたポンド(校池)のなかで、大音響
とともに沈座(沈没とは違い、完全に水没せずに船体が水底に着座
した状態)してしまいます。

大学のポンド内で沈座した<明治丸>
資料提供:東京海洋大学
沈んでしまったボロ船などに用はない、と思われたのでしょう。校
舎の方は依然として米軍の管理下にあったものの、<明治丸>の接
収のみ、10月18日に解除されます。そしてこの管理の名目で
ようやく船内に関係者の出入りが許可されることになりました。
あぁ、良かった***
次回は<明治丸>を引き上げろ!!浮揚工事のアレコレ、です。