2006年04月10日

◆ 明治丸ヒストリー 【2】 by Qたろー ◆

前回は日本が開国し、外国船のために灯台が必要になった背景や
<明治丸>誕生のいきさつを振り返りました。
今回は建造にまつわる、ちょっとメカニカルなお話しです。

《外車船からスクリュー船へ》

明治6年(1873年)3月、最初の「建造伺書」が作成された
時点では、<明治丸>は先輩の灯台業務船<テーボール>と同じ
「外車蒸気船」となっていました。
「外車」とはもちろん、ベ○ツやB○Wといった外国産の車のこと
ではありません。船の両横腹、または船尾につけていた推進用の
水車のことで、この時代多くの船が蒸気機関で動く「外車」とセイ
ルを併用して航海していました。

しかしその最初の「建造伺書」の9ヵ月後に再び提出、決裁された
伺書で<明治丸>は「スクリュー船」として建造されることになっ
ています。なぜ途中で仕様が変更されたのでしょう?
詳しい資料は残っていないのですが、建造を請け負った「ネイピア
造船所」で当時建造された船の一覧表を見ると、<明治丸>の数隻
前までは「外車船」が多く、<明治丸>以降は「スクリュー船」が
大多数となっているようです。

つまり<明治丸>が建造された時期は、ちょうど「外車船」から
「スクリュー船」へと移り変わる過渡期。造船所と灯台寮関係者の
あいだで検討・協議した結果、どうせなら最新式のスクリュー船で
いこうぜ!ということになったのではないかと思われます。

main engine Meijimaru.jpg display room Meijimaru.jpg
 左:大正初期の主機関室の様子 資料提供/東京海洋大学)
 右:機関室囲壁、現在は展示室になっているこの部屋の床下に
 主機関が設置されていました)
            
ところで皆様は、オフィサーが船の指揮をとる場所をなぜ「ブリッ
ジ」(=橋)というようになったかご存知ですか?
波が常時甲板にうちこむ外洋航海中の船側外車船では、外車輪の
メンテナンスが悩みのタネでした。これを、危険をともなわず右舷
〜左舷と移動できるようにと考え出されたのが、両舷の外車カバー
の上部に架けわたされた橋(ブリッジ)だったのです。

蒸気船が航行するようになる前、船の指揮所はもっぱらクォーター
デッキ(後部甲板)でしたが、やがて指揮所がブリッジ上部に移り
また「外車船」が「スクリュー船」に替わってからも、そこをブ
リッジと呼ぶ習慣が残ったのだそうです。おもしろいですね!

portside forecasttle Meijimaru.jpg
 灯台業務船時代『火夫』(機関員)が使用していた左舷船首

《一等飛脚船同様ノ出来!》

上記の「建造伺書」が作成された翌年、<明治丸>は英国スコット
ランド、グラスゴーの「ロバート・ネイピア&サンズ造船所」で
生まれました。
当時、有名なマリン・エンジニア(舶用機関設計者)として世界に
その名をはせていたロバート・ネイピアの造船所には、イギリス
海軍や商社のみならず、フランス、インド、ロシア、ドイツ、
オランダなど、様々な国からひっきりなしに建造注文が入ります。
そこに明治新政府が目をつけたのは、しごく当然の成りゆきと
いえるでしょう。

「建造伺書」に添付された仕様書の「後ロ広間」(サロンのこと)
の項に「一等飛脚船ノ出来各部屋夜ノ明リハ室間柱仕込ノ『ラン
プ』ヨリ取ル』とあります。今の我々の目から見ても、とくに船尾
にあるサロンは仕様書が述べているとおり、かなりエレガント。

<明治丸>に先立つこと20年ほど前、やはり日本が外国から購入
した<咸臨丸><観光丸>などは軍艦でしたから、<明治丸>の
優美さはさぞや当時の人々の耳目を集めたに違いありません。

figurehead Meijimaru.jpg
『挙げ鼻文様』といわれる船首飾り モチーフとなっている
のは多年草のアカンサス(別名:ハアザミ)

次回の「明治丸ヒストリー《3》」では、いよいよ<明治丸>が
完成。日本への回航、当時のクルーについてのお話です。
posted by SaltyFriends通信 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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