〔本稿は4月号、5月号に掲載させていただいた大森洋子さんの紀行文
『わが著者とイギリス港町デート』の第三回めです。編集子の不手際により
掲載の間隔が空いてしまいました。大変申し訳ございません。心よりお詫び
申し上げます〕

大森洋子さんの『わが著者とイギリス港町デート』過去の掲載分↓

1回目はこちら☆

2回目はこちら☆☆

文中写真:すべて大森さんご提供


◆訳者冥利◆
 
帰国後、夫妻との交流はさらに強まった。翻訳中にわからないことがある
と、メールを送る。すぐにジュリアンから回答が返る。資料を送ってほしい
というと、キャシーから小包が届く。訳者にとって著者を知ったということ
は作品理解をいっそう深くしてくれた。

 今回再会したキャシーは四年前とおなじくタクシーを仕立て、スケジュー
ル表を手にして、わたしたちをホテルからほどないチャールズタウンへ連れ
ていった。
 川のように細長い港に古い木造の大型帆船が三隻も並んでいるではないか!
そばには小型帆船も数隻いる。クルーが船体を修理していた。その光景はさ
ながら『キッド』の世界。護岸は年古りた石積みで、まわりの建物も古めか
しい。そこだけ十八世紀の港町が出現したかのようだ。しかも、これらの船
は展示するための復元船ではなく、元は実際に航海していた貨物帆船で、い
まも客を乗せて航海する。”スクエア・セイル”という私企業が運営している
というから、さすがに帆船の本場イギリスだ。

 甲板に上がってマストを仰いだわたしは、思わず、「あ、ラバーズホールがない!」
 帆船好きにだけ通じる専門用語に、ジュリアンがパチッと片目をつぶった。
彼はいまキッドの九巻目"Treachery"と帆船の歴史本の締め切りをまえに忙
しい毎日を送っているが、「ヨーコに便乗して」と今日は一日お休み。帆船
をながめる彼の目は作家の目から無邪気に楽しむ少年の目に戻っていた。


帆船まつりに沸くファルマスの街


「二〇〇一年にこのアール・オブ・ペンブロック号に乗って航海したんだよ。
ぼくはオールド・ナイビーだ。客じゃあなく、クルーとしてさ」そう彼は茶
目っぽく笑う。

 ジュリアンはなによりも実体験から得られる実感を重んじる作家だ。『キ
ッド・シリーズ』を書きはじめるまえに、この帆船でアイルランドからリバ
プールまで航海した。それからも機会を見ては帆船や汽船に乗って、本物の
海風を体内に吹きこんでいる。この航海を彼は「わが生涯でいちばん楽しい
思い出」と言う。わたしも練習帆船日本丸で太平洋を往復したが、その航海
は「わが生涯でいちばんの宝物」だ。
 航海の思い出話にふける二人にまたキャシーが言った。「ジュリアンは
ヨーコと船の話をするのがほんとに好きなのね」

 
左:ファルマスのお魚屋さん おいしそう***
右:大森さんが投宿されたホテル なんともロマンチック!

 
緑、黄緑、茶色と、パッチワークのように畑の続くコーンウォールの丘陵
を下って、細くくねった道をタクシーは小さな港町へ入っていった。両側か
ら店々の屋根が張り出し、その背後には急な丘がせりあがっている。八巻目
"The Admiral's Daughter" の舞台となっているポルペローの町だ。港の入
口は狭くて、奥が深い。

 そのむかし、ここは密輸船[スマッグラー]が逃げこむ港だった。夫妻は
この港町で真冬の二週間を過ごして新作の構想を練った。そのとき借りた小
さな家は港の入口のすぐ脇にあった。その名も”スマッグラー・コテージ”
「ものすごく寒くてね。風が吹くと、家が揺れるのよ。ジュリアンったら、
嵐のなかで港の岩場に立って、両手を広げてるの」

 巨体のジュリアンが嵐に立ち向かっている姿が目に浮かんだ。
 小型艦の艦長となったキッドは密輸船を探してこの港にやってくる。そし
て村の娘ロザリンドと恋に落ちる。
「キッドがロザリンドとキスしたのはね、あの道だよ」と、ジュリアンが丘
の上へ続く急な坂道を指さした。そのときわたしの頭のなかに、ジュリアン
が初めてキャサリンにキスした光景が浮かんだ。おずおずと、恥ずかしそう
に……。ジュリアンとキッドが重なった。

 シリーズものを翻訳できるというのは訳者にとってありがたいことだ。一
冊訳すごとに著者の単語の使い方がつかめ、文体が飲みこめて、意図がわか
り、ストーリー展開が読めるようになってくる。そして著者と実際に会うと、
その人となりに触れられて、著者の感覚が原文のなかから湧きあがってくる。

「わたし、もう六巻も訳したでしょう。いまでは英文を読むと即座にジュリ
アンの意図がわかるの」
 そう言うと、彼はいたずらっぽく目をくりくりさせて、「ノーノー」と指
を振り、「ヨーコ、いま書いている本は、いままでとガラリと書き方を変え
たんだよ」
 そうか、どんな変え方をしたのか、楽しみだ。帆船ものの好きな元日本海
軍少将がこう言ったことがある。「キッドを読んでいると、著者に訳者が白
刃で切りかかっているようだ」こんどは訳者の刃が跳ね返されてしまうかも
しれない。それもまたよし、か……。

 シリーズものを訳していてもう一つありがたいのは、こうして物語の舞台
を歩いたことが次の巻の翻訳に役立つことだ。十六年前に英仏海峡の東の端
の港町ドーヴァーを訪れてから、海峡沿いに港町をたどって西に進み、とき
には夫妻に案内されて、とうとう今回、西の端のランズ・エンドまで行き着
いた。”The Admiral's Daughter"ではキッドがランズ・エンドに上陸する。
翻訳に訳立つだけでなく、自分が訳した場所を訪ねる旅はどんな旅よりも楽
しい。事前に行ければいちばんいいのだが。

 
左:ここは地の果て「ランズ・エンド」
右:崖っぷちに立つ大森さん(ハラハラ・・・(汗))


 ジュリアン&キャシーは新作を書くまえに、舞台にする場所へ取材に行く。
これまで行ったのはカリブの島々、ジブラルタル、マルタ島、メノルカ島、
ジェノバ、フランス・ノルマンディ等など数知れない。今度はわたしも同行
させて、そう頼んである。作家は取材をして、それをどのように作品に仕立
てていくのか、わたしのもっとも興味のあるところだ。

 エージェントのキャロルが言っていた。「ジュリアンは十八世紀を生きる男、
キャシーは二十一世紀を突っ走る女」
 そのとおりだ。この二人とのわたしの航海はまだまだ続く。


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『キッド』7巻の表紙。
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