2008年11月10日

■□ 船長の見たペリー艦隊 ☆最終回☆ By大河原明徳さん □■

「ペリー提督の日本地図」

Perry's map.jpg

この地図はペリー提督が二度にわたる日本訪問のあと、米国政府に
提出した「日本遠征記」のなかにあったものです。
ペリーはアメリカを出発する2年ほど前から、日本に関する諸資料を
集めて熱心に研究しています。そのなかに長崎出島のオランダ商館の
医師であったシーボルトが持ち出した、国禁の伊能忠敬の図がありま
した。

伊能図は江戸時代、当時の最新の知識、技術、そしてたいへんな努力
によって作られ、1814年に江戸幕府に提出されたものです。
私も今から50年ほど前に、ロンドンのグリニッジの海事博物館で展
示されていた伊能図を見て、その正確さ、精緻さに驚いたものでした。

伊能忠敬は千葉の商人でしたが、50歳になって一念発起し、江戸に
出て測量学を学び、大日本沿海全実測図をつくりあげた立派な人です。
その図には、江戸湾(東京湾のこと)も伊豆七島も記載されています
が、船員が使うには問題がありました。
ペリーも「日本遠征記」に「、、、日本人の海図には経緯度も縮尺の
記入もない、水深測量の記録も全く欠けていた、、」と記しています。

そのほかペリーは、欧米人の船長で江戸湾に入った人たちからも情
報を集めていましたが、幕府の鎖国政策もあり、それまでに浦賀より
奥に入った欧米の船はありませんでした。
そのためもあって、ペリー艦隊の<マセドニア号>は、三浦半島西側
の小田和湾を江戸湾入り口と間違え、暗礁(亀城礁)に乗り上げ、
そのときは機走軍艦3隻を使って引きおろしています。そして、ペリー
の報告書にこの暗礁は『マセドニア・リーフ』と名付けられ、また
その付近はFalse Bay(欺き湾)とされています。

1853年7月「泰平の眠りを覚ます蒸気船たった4はいで夜もねむ
れず」の4隻の黒船は浦賀沖に停泊し、ペリーは久里浜に上陸して
米大統領からの日本に開国をせまる国書を置いて、10日ほどで一旦
日本を離れてゆきます。
このとき幕府は、厄介払いができてやれやれと思ったに違いないので
すが、ペリーは帰る前にちゃんと次の来訪のために、東京湾の西側を
横浜沖付近まで水深測量をしています。

perry's fleet.jpg
東京お台場「船の科学館」所蔵のペリー艦隊ジオラマ


この前後に幕府の役人はたくさんの小船を出し、測深をやめるように
言っていたのですが、ペリーは測量ボートに武装兵を乗せ、護衛に
大砲をのせた黒船をつけて、日本人を恫喝しながら測量を実施して
います。

そして翌年1854年2月、一挙に7隻の黒船が浦賀沖を通り過ぎ、
かれらがAmerican Anchorageと名付けた横浜の南、金沢沖に錨を
いれています。
それから約2週間、第2回目の交渉をどこで行うかのやりとりがあり
ました。日本側からは第1回目の交渉をした浦賀にもどれ、それが
駄目なら鎌倉はどうだといっていたのですが、ペリーはどちらもこの
艦隊には安全な港でないとして拒否しています。

そのなかから、突然当時までまったく名前の知られていない横浜が
交渉の場所となったのです。ペリーは地形、水深などを見聞して
横浜が良い港と判断したのでしょうが、同時に砲艦外交のためにも
都合良い港であったのです。

「ペリー艦隊海図"YOKUHAMA"1854年」を見てください ↓
ペリー艦隊が安全に錨泊できる4尋線の外側から"YOKUHAMA"の海岸
までの距離は、1キロから2キロです。そして当時の艦載砲の射程
距離は、大砲の種類や大きさにもよりますが1・6キロが有効射程と
されています。これでペリーが、横浜を交渉の地として了承した訳が
わかります。
そしてこれが、日本一の港ヨコハマの起源のひとつとなっているのです。

chart, fathom.jpg
YOKOHAMAではなく"YOKUHAMA"

海、そして船の歴史もなかなか面白いですね。
またチャンスがあったら寄稿させてください。
                    Captain大河原
posted by SaltyFriends通信 at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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