2008年07月10日

□■□ 榎本武揚と開陽丸 その3 □■□

■□ 榎本武揚と開陽丸 その3 □■ By あすかさん

この夏帆船「あこがれ」が参加する「榎本武揚没後百周年記念事業」について、理解を深めてもらうため、榎本さんと<開陽丸>に詳しい北海道在住のあすかさんに書いていただいた『榎本武揚と開陽丸』もいよいよ最終章!!

東京港 有明多目的埠頭(東京国際展示場(東京ビッグサイト)の裏の岸壁・ゆりかもめ「国際展示場正門」駅下車徒歩5分・水上バス「有明船客ターミナル」下船スグ)にて、7月12日(土)はセイルドリル・船内一般公開/7月13日(日)10:00〜は東京港幕府脱走軍/榎本艦隊の品川沖脱走を想定した出港式が開催され、石巻を目指します!!皆様、ぜひ遊びに来てください!!

榎本武揚と<開陽丸>

V戦いのはてに・・・・


日本へやってきた開陽丸を待っていたのは、内戦への参加だった。

慶応3年(1867年)の終りから4年正月にかけて・・・・開陽丸の軍艦乗組組頭(艦長)となった榎本と共に阿波沖へ向かい、薩摩海軍と交戦。勝利を収めた。この海戦に参加した幕府船は開陽のほか、蟠龍、富士山丸、翔鶴丸、順動丸・・・
華々しい初陣を飾った開陽と榎本だったが、事態は急変する。
大政奉還すぐに陸で起こった鳥羽伏見の戦いで幕府側が敗戦し、大坂城にいた将軍慶喜は密かに江戸に脱出。その際使われた乗り物こそ、天保山に停泊していた開陽丸だった。
艦長榎本不在のまま開陽は副官の沢太郎左衛門を指揮官に江戸に向かい、榎本は軍艦富士山丸に乗船し残りの船と共に後を追った。その際、大坂城にあった金18万両を持って行った・・と言われている。

4月・・鳥羽伏見で勝利し新政府となった薩長らから、幕府艦隊の引渡しを通達される。
これを良しとしない榎本らは、品川沖から艦隊8隻をつれ江戸を脱走。勝海舟らの説得で一時は戻ったものの、再び8月、4隻で脱走した。
彼等は北を目指した・・・・・銚子沖で暴風のため2隻を失いながら、仙台で陸路を戦い抜いた旧幕府軍を収容し、宮古で薪を積み込み・・艦隊はやがて蝦夷地(北海道)の鷲ノ木へたどり着いた。蝦夷地についたのは旗艦の開陽を始め、回天・蟠龍・長鯨・神速・鳳凰・回春・大江だった。脱走したときは4隻だった榎本艦隊も、北上する中で増えていったのだ。
上陸したのは10月20日・・現在の12月3日ごろである。北の大地は真っ白だった。
榎本が蝦夷を目指したのは、旧幕府に従った武士たちが開拓をし生活できる場所を目指したためだった。しかし、上陸した蝦夷地には松前藩がある。
蝦夷地の委任を求める嘆願書を箱館府知事に出すも、認めるはずも無く戦争は始まった。

榎本らは鷲ノ木で上陸した軍を二手に分け、一方の土方歳三の軍は海沿いを行き、もう一方の大鳥圭介の軍の方は内陸の本道を進み箱館を目指した。
迎え撃つ新政府軍らとの戦いに勝利し、旧幕府軍は箱館五稜郭へ。既に箱館府は五稜郭を放棄し青森へと脱走していた。無血入城を果たした。
箱館を押さえた後の11月1日、開陽は箱館に入港した。

続けて松前福山城の占拠のため、土方隊は攻撃を開始した。福山城は占拠したものの、松前藩の降伏はない。松前藩は館城(厚沢部町)を最後の砦としていたのだ。
松岡四郎次郎に200の兵を持たせ、館城攻略に向かわせた。その後は江差へ。最終的には土方隊と協力して江差で松前藩を挟み撃ちにする作戦だった。
その陸軍らを援護するため、榎本は開陽丸で江差へ向かう。11月15日のことだった。しかし、陸軍らはそれぞれの戦闘で足止めを食っていた。
盟友等を江差で待つ開陽丸・・・・戦争は榎本軍有利に進んでいたが、ここに来て運命の女神は榎本軍を見放した。
この時期の江差は天候が激しく変わる。15日の夜、暴風雪が吹き荒れだした。開陽の錨は走錨を初め船体は岸辺へと押しやられた。機関を限界にあげても、船は止まらない。
翌日陸軍がやってきたときには、開陽丸は座礁し船底は破れていた。
榎本らは開陽丸から出来るだけ荷物を降ろした。

そして十数日後・・・・・・幕府最強と歌われた開陽丸は、江差の海へと沈んでいった。
開陽丸誕生からその死まで、見つめていた榎本。その胸中ははかり知れない。
『衆人暗夜に灯を失ひしに等し』
この一言に尽きる・・・・・。

後に旧幕府軍は選挙で総裁以下人事を決め、国としての体裁を固めたが、冬があけ春になった彼等に・・・次の冬は無かった。
1869年(明治2年)3月、新政府は乙部より上陸を開始し、やがて旧幕府軍を追い詰めていく。5月11日、新政府の総攻撃、箱館は新政府に落ちた。
5月18日(現6月26日)。五稜郭開城。ここに戊辰戦争は終結した。

歴史にもし、はありえないが、もし・・開陽が座礁しなかったら・・・榎本の運命も変わっていただろうか?
罪人として東京と名を変えた江戸に戻り、やがて許されて新政府に出仕し新しい日本を作る榎本武揚。
しかし開陽があったら、もしかしたら蝦夷地は独立して日本も違う形だったかもしれない。そう思うと、今のままでもよかったのだろうか・・・?
北海道は戦争後開拓も進み、今では豊かな田畑が広がっている。蝦夷地開拓を願った榎本らの思いは、今もこの北の大地に生きている。

サーチ(調べる)参考資料・()は出版社
● 開陽丸(開陽丸青少年センター)
● 週間日本の100人 73号 榎本武揚・(ディアゴスティーニジャパン)
● 幕末維新の海・渡辺加藤一 著(成山堂書店)
● 幕末の蒸気船物語・元綱数道 著(成山堂書店)
● 戊辰戦争・歴史読本セレクト 幕末維新シリーズA(新人物往来社)
● 開陽丸資料HOUT EN SCHEPEN第八章フォールリヒター(福武学術文化振興財団研究助成事業添付資料)


posted by SaltyFriends通信 at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。